3.11市民ネット深谷のブログ

脱原発をメインにメンバーが気の向くまま書きます。

君臨する原発-どこまで犠牲を払うのか-

本書(発行:東京新聞)は、2013年に中日新聞東京新聞北陸中日新聞に連載された「犠牲の灯り」に加筆され単行本化されたものです。

あとがきを引用します。
「東北の緑豊かな大地を放射能で汚し、人々の平穏な暮らしを奪った東京電力福島第一原発事故。あれから三年、大勢がいまだ帰郷を果たせず、鉄骨むき出しの崩壊現場では作業員らが被ばくの恐怖と闘いながら、それこそ命懸けの収束作業を続けています。これだけの犠牲を払いながら、日本はなぜ原発と手を切ることができないのでしょうか。ひょっとしたら、原発を制御できるものとたかをくくりながら、実際はその逆で、原発に支配され、生け贄を捧げる奴隷に成り下がっているのではないのでしょうか。人間が知らず知らずのうちに工場の歯車となる機械文明を皮肉ったチャップリンの映画『モダン・タイム』と同じように。」

現在においても、モダンタイムが突きつけた機械文明と、その本質ではそれほど変わっていないということでしょう。私たち人間が原発を造りだし、そしてその原発の僕となっている図式ですが、チャップリンの時代に比べ、はるかに複雑になっています。原発=核問題は、煎じ詰めれば命の問題です。生きるか死ぬかの問題でもあるのです。その命の問題が、利権構造の中で見えなくなってしまっていたのです。3年前の原発爆発事故は、私たちにそのことを気づかせました。そして多くの人たちが立ち上がり、結果として日本の原発はすべて止まっています。

しかし、利権構造にどっぷりつかってしまった原子力ムラの懲りない面々は、実に巨大で強力です。彼らはまず、電気が足りないと脅しをかけました。しかし、原子力発電がなくとも、電気は足りていることがバレてしまいました。次に、コストが他の発電に比べて、はるかに安いんだと、言い訳を始めました。ここでも、算術のからくりがバレて、原子力発電は、決して安くないということがバレてしまいました。その過程では、総括原価方式なる電力会社の錬金術原発立地自治体へ麻薬のように使われていた税金などが次々に明らかになりました。最近でも、日本の貿易赤字は、原発が稼働してないことによる化石燃料の輸入が原因とのキャンペーンが張られましたが、実際は、円安や産業構造の空洞化が進んでいることが原因だと、これもバレてしまいました。

危機感を抱く原子力ムラの懲りない面々は、上部構造から再構築を始めたようです。3年の経過をまるで禊ぎが終わったかのように、4月11日、安倍政権は、原発を「重要なベースロード電源」と位置付けるエネルギー基本計画を閣議決定しました。未だに、事故の原因や収束の目処が立ってないのに蓋をしているのです。さらに、これもバレてしまったことですが、核廃棄物の処分方法がないのに、再稼働させるというのですから恐れ入ります。東京新聞は、翌日の朝刊トップで「原子力ムラ再稼働」と推進勢力の蠢動を大きく取り上げました。

毎日新聞は、「東京電力福島第一原発事故による住民の被ばくと健康影響を巡り、外務省が先月中旬、「報告書を作成中のIAEA国際原子力機関)から要請された」として、福島県の自治体にメールで内部被ばくなどの測定データ提出を求めていたことが分かった。メールは、他の国際機関より被ばくを小さく評価されるとの見通しを示しており、受け取った自治体の約半数が「健康影響を矮小(わいしょう)化されかねない」「個人情報をメールで求めるのは非常識」などと提出を断り、波紋が広がっている。(2014年4月13日)」と、推進勢力の蠢動が、具体的にどのような形でなされているか、記事にしています。

安倍首相は、オリンピック招致のプレゼンで、状況は完全にコントロールされていると、国際的に大嘘をつきました。福島第一原発では、相変わらずミスや不手際が続いていて、事故は誰が見ても収束していません。しかしながら、厚顔無恥にも未だに首相の椅子に座り続けています。マスコミの追及も甘く、このことに疑問を呈したとしても、結局は肯定しているのではと思えるほどです。嘘が平気でまかり通る国になってしまったということです。かつてナチのゲッペルスでしたか、大嘘をつき続けると、やがてその嘘は事実になると言ったそうです。さらに問題なのが、このアベノミクスならぬアベノライアスさえもはや旧聞になってしまったのではないかということです。このような風潮が社会を覆っています。こういった風潮を突き破れるかが原発との決別への鍵と思います。

科学的な事実として、事故由来の放射能は減衰していますが、同じく科学的な事実として、放射能福島県を中心に東北・関東地方まで汚染し続けています。大量に降り注いだセシウム137は、100年経ってもゼロになりません。国は、「帰還に向けた放射線リスクコミュニケーションに関する施策パッケージ」なる道具を使い、事故由来の放射能による影響を少なく見せようと、リスコミならぬスリコミに躍起になっています。まるで地元住民は、汚染された郷土に住み続けさせる実験台にされているようです。地元住民の対立構造を巧みに操りながら。

繰り返しになりますが、原発事故は、収束してないし、今でも放射能は漏れているし、更なる重大事故も否定できないのです。広範囲な放射能汚染もそのままです。ということは、この事故は現在進行形でもあるのです。現状では、事故直後多くの人が共有した危機意識の希薄化は相当進んでいるように思います。《嫌なことは忘れる》は、時として必要なことです。しかし、忘れてはならないものも絶対にあるのです。原発からの決別と、放射能から子どもたちを守るのは、私たち大人の責任です。

本書は、理念的なものとは違う角度で、登場する人たちそれぞれの人間ドラマとして、構成されています。もう一度この問題の実相をとらえ直すのも、必要なことではないでしょうか。(仁;内容に踏み込んでいませんね(_ _ )/)